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オートサロン的、スピード論。

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オートサロン的、スピード論。

「東京エキサイティングカーショー」と聞けば、40代半ばより上の世代のクルマ好きなら思わず、「うぉ、懐かしい!」となるはずだ。

 1983年に「チューニングを文化に!」というキャッチフレーズを掲げて始まった日本初の本格的なチューニングカーショーは、その名の通り、ストレートに興奮できるスピード感に満ちた、それは刺激的な内容だったという。ボクは世代的にそれをリアルに見たわけではないのだけれど、先輩たちの話を聞くたびに、合法・非合法を問わず、そのヤバさを伴うスピードに対する無垢な熱度が伝わってきて、どこか気持ちが昂った。

 日本においてのチューニングがもっとも華やいでいた時代。それは80年代前半から90年代半ばまでの10年間ほどであり、世界的に見てもかなりディープで幅のあるマーケットが形成されていた。最高速、ゼロヨン、峠、そして首都高や大阪環状といったルーレット族と、そのステージも多岐に及んだ。「速く走ること」がひとつの明確なステイタスとなり、チューニングショップは「速さ」を確実に「金」に換えることができた時代。若者は18歳になると誰もが速攻で免許を取り、バイトして貯めたお金を叩いてクルマを買い、それを自分好みに、何よりも速くするために、イジッた。

 そう、この時代のチューニングとはまさに、ひとつの「熱い文化」だった。

 今の時代はファッションにスマホ、さらには旅行やらなんやらとアレコレ出費が嵩み、クルマに稼ぎのすべてを注ぎ込むという若者はいなくなった。実際、バブル期と連動する80年代前半から90年代半ばまでの世の中は若者でもバイトでかなりの額が稼げたというけれど、今では駐車場代さえも捻出するのが難しい。もっと言えばチューニングのベースとなるクルマだって、今よりも圧倒的にその選択肢は多く、そしてはるかに安かった。時代のせいにだけするのも何だけれども、チューニング全盛期はそれだけ時代がよかったこともまた、否めない。

 クルマで興奮することが堂々と許された時代(お上の取り締まりはそれなりに厳しかったけれど、今のようなネットによる無闇やたらな監視の目もなく、さらには社会全体がスピードに対して寛容でもあった)に生まれた「東京エキサイティングカーショー」は、やがて「東京オートサロン」とその名を変え、チューニングだけではなく、アフターマーケット全体を視野に捉えた「モーターショー」へと発展していった。気付けばそこには大メーカーが入り込み、どこかお行儀良く、ある種冷静な大人な事情も付加されていく。巷から徐々に尖ったチューニングが消えていったように、オートサロンもまた、かつてあったあの無垢なエキサイティングさを失っていったのだった。

 幕張メッセの全ホールを使い、3日間で30万人超の来場者を動員した「東京オートサロン2018」。第36回目の開催となったそこは実際かなりの熱気に満ちていたが、それが「真にエキサイティングなものだったか?」と問われると、正直答えに詰まる。

 個人的には、今の時代の感覚で捉えれば、十分にエキサイティングなモーターショーだと思える。何よりのその幅の広さには、世界に誇れるミックスチャー感がある。

 今やオートサロンの風物詩であり大切な収入源でもあるカメラ小僧たちの群れは、純粋にクルマを愛する者にとっては煩わしいことこの上ないが、それがキャンギャルという、日本独自のひとつの文化を生み出したのだと考えれば、「絶対になし」とは言い切れない。そう、「なんでもあり」だからこそのオートサロンなわけで、そこは大目に見ながら楽しめばいい。

 肝心のクルマはといえば、ただそれを見るだけで心熱くなるような存在は少なくなった。少なくとも、「こりゃ、やべえよな……」と思える、どこかヒリヒリとした、まさに規格外なオーラを放つ存在はそこには皆無だった。

 しかし、それでも老舗チューナーはまだかつての熱さを現代的にアレンジしながらしぶとく気を吐いていたし、チューニングではないカスタムの分野でも、好むと好まざると「個」を明確に打ち出した作品が見られるのはオートサロンの醍醐味だと思う。まだまだ荒削りだけれども、学生たちの手による独創的な出展が目立つのもいい。

 メーカー系は国内のトップメーカーが軒並み顔を揃え、モータースポーツ活動のアピールだけではなく、今年はよりアフターパーツ系のアピールに積極的だったのが印象に残る。単なるイメージ作りだけではなく、「モノを売る場」として、オートサロンを活用し始めているのだと感じた。欲しいかどうかはまた別として(だって、どれも妙にファミリー層に媚びていてダサいんだもん!)、トレードショー的な機能をオートサロンがもっと高めるべきなのは正しい道理だ。

 招聘したケン・ブロックのパフォーマンスに関しては、彼本来のスケールから考えれば些か物足りなさ(特設駐車スペースじゃねえ……)も感じたけれど、海外のリアルにぶっ飛んだスピード感を日本のオーディエンスに直に披露したという面では評価したい。希望しとしては、地元行政や警察ともっと連携して、幕張メッセ周辺の公道を封鎖して「ジムカーナ・ジャパン」の撮影をするくらいのインパクトが欲しい。いまだに「スピードは悪だ」と真正面から決めつけるお上に対して、情熱を持って「スピードの持つ幅のある価値」を認めさせるのも、オートサロンという文化の使命だと思うから。

 というわけで、今回のオートサロンでの個人的ベストは、TOM’Sのブースに置いてあったKP37のレースカー。隣にあったレクサスLCにはまったく勃たなかったけれども、この小粒でちょっとヤンチャな雰囲気の佇まいにはやられた。グラフィックの感じも、この時代のはシンプルで好いのよね。結局のところ、「昔はよかった」的なオチになってしまいゴメンなさい。でもね、今のところ、それが偽らざる本音なんすよね。

 あ、小さいクルマに刺激的なエンジンをぶち込む的な遊び方といえば、エスカンとも所縁のあるマルカツがかつて作ったコスワース・カプチーノみたいなのが再びいいかも。そう、絶対的なスピードやパワーにだけ頼らずとも、クルマはもっともっと刺激的に楽しめる。来年のオートサロンには、そんなクルマが出てきたら興奮するな、と思った次第。鹿田パイセン、期待してまーす♡

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この記事の執筆者

高田 興平

Ko-hey Takada

モーターヘッド編集長

高田 興平の記事一覧>>

1974年式の43歳。寅年。職業は編集者。ジャンルレスなモーターカルチャー誌「モーターヘッド」&コレクター向けのハイエンド・カーライフ誌「Gentleman Drivers」の編集長を兼務。他にもイベント関係などアレコレ手がける浮気性(?)。既婚。愛車は1982年式のメルセデス・ベンツ500SL。

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高田 興平Ko-hey Takada

モーターヘッド編集長

1974年式の43歳。寅年。職業は編集者。ジャンルレスなモーターカルチャー誌「モーターヘッド」&コレクター向けのハイエンド・カーライフ誌「Gentleman Drivers」の編集長を兼務。他にもイベント関係などアレコレ手がける浮気性(?)。既婚。愛車は1982年式のメルセデス・ベンツ500SL。

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