
ボクの中でのマルカツは“リアルなクルマのオモチャ箱”というイメージがそのはじまり。
最初にその存在を認識したのは雑誌『デイトナ』の広告だった。高校1年生のとき(1991年)に創刊されたデイトナは所(ジョージ)さんがトータルコンセプターを務めた雑誌で、ともあれあの黄色い表紙に赤いC1コルベットがバーンナウトする創刊号を一目見た瞬間、ボクの身体にはバリバリバリ!!! っと、まさに雷に撃たれたかのような衝撃波が走って、以降すっかりその虜になった。
一言で言えばアメ車(とその周辺のカルチャー)の雑誌。さらに言えばとても自由なカスタム(=クルマ遊び)の精神がそこには縦横無尽に編み込まれていた。当時はもろにアメリカかぶれだったボクには『デイトナ』誌面を飾った記事や写真やイラストはそのどれもが突き刺さるものばかりで、ページを捲るたびにドキドキワクワクと心躍らせ目を輝かさせたことを思い出す。堅苦しい評論やらインプレ記事は見当たらず、どこまでも遊びに特化した所さんらしい肩の力の抜けた、しかしとことんクルマに真剣なコンセプトは本当に素晴らしかったと今でも思う。
そんな『デイトナ』には当然広告もたくさん載っていたのだけれど、その中にはマルカツの広告もあった。正直に言うと今となっては他のクルマ雑誌の広告も記憶の中でゴッチャになってしまっていて、『デイトナ』創刊号(とそれ以降)のマルカツの広告がどんな構成だったかは定かではないのだけれど、記憶としては扱っている在庫車両がドッサリと並び、そこにプラスしてスーパートラップ(バイク用で一世風靡したアメリカ製マフラーでマルカツはアストロ用とかR32 GT-R用とかを取り扱い)の製品画像が載っていたような気がする。あっ、“マルカツ”とカタカナの赤文字で描かれたロゴも鮮烈な印象だったな。
ともあれ当時のマルカツは扱っているクルマの並びに夢があった。まあ、これもかなり曖昧な記憶(時系列含め)ではあるのだけれど、ボクが見惚れたのはカリフォルニアのモンスター・モータースポーツが製作したフォード製V8をユーノス・ロードスター(ミアータMX-5)にぶち込んだ1台(『デイトナ』誌面でも特集記事を組んでいた)だったり、コスワースのレース用エンジン(YBM)を積んだカプチーノだったり、ベック550スパイダー(後で聞いたらフラット6も積めたらしい)だったり、南アフリカ製のバーキン7だったり、あとはアメ車やスーパーカーがドッサリと…だったり、とにかくもうなんだかよくわからないけれども「オモロそうなクルマのオモチャを全部並べてみたで、ええやろ!」的なマルカツ流のド直球なメッセージがそこからは存分に感じ取れたものだった。その後も所さんのクルマ番組やビデオオプション(真っ黄色のNASCARみたいな極悪リンカーンやら極悪ロールスで泥んこダートオーバルに参戦して滅茶苦茶してた。ちなみにマルカツ井上社長の当時の愛称は“悪のヒップホッパー” 笑)などの映像メディアを通して、マルカツの存在は自分の中ではいろんな意味で“ぶっ飛びまくったヤバいクルマ屋”としてのイメージが強まっていく。
そして20代になりスーパーカー雑誌の『GENROQ』編集部でバイトをするようになるとマルカツの存在はより身近なものに。編集部の先輩たち(当時の編集者は血気盛んで面白かった)がマルカツのサポートを受けてレース(ゴルフⅡのポカールレースとか)をしていたり、ベック550の長期レポート車に乗せてもらったり(とっても楽しいクルマだった)、学生バイトからそのまま社員になる頃にはフェラーリF355の長期レポートも手伝わせてもらって、後に伝説となる可変バルブ式F1マフラーのクライスジーク・ブランドの誕生現場を裏側から見ることができたのは今でも良い思い出だ。そう、この頃からマルカツという存在はボクの中でよりリアルなものとして確立されていったのである。
“ヤバいクルマ屋”だと感じていたけれど、実際に近づいてみるとそのヤバさはクルマに対するアツさみたいなものに置き換えられていった。メンバーの皆さんも濃い人ばかりで一癖どころの騒ぎではない強烈なクセ(=個性)をもった面々は見た目も怖かったけれどその懐に飛び込むと不思議と誰もが人間味に溢れていて面白かった。何より、クルマに対する情熱がハンパなかった。スーパーカーも旧車ももちろんアメ車もチューンドも、ともあれクルマというものに対して真剣で純粋でそしてときに破天荒でただ話を聞いているだけでもワクワクさせてもらったことを思い出す。
第三京浜の港北インターを出てすぐの場所に馬鹿でかいショップを構え、大通りに向いたファクトリーは全面ガラス張りでその中には色とりどりのぶっ飛んだ車両が並んでいて当時のクルマ好きにとってのホットスポットになっていた。SNSが盛んになる遥か以前の時代の話だけれど、もしSNS全盛の今の世にあの場所が残っていたら、それはもう間違いなく聖地になっていただろうな、と思う。そう、あれこそまさにぶっ飛びまくった、何よりリアルなクルマのオモチャ箱だったのだから。
先日のこと、ボクは半分趣味でル・マン・クラシックを観戦してきたのだけれど、そこでマルカツが当時スポンサードをしていた90年代初頭のグループCカー(スパイスSE90C)の姿を見つけて感動した。数年前のル・マン・クラシックでは90年代中盤のLM GT2クラスを戦った911GT2にもマルカツのカタカナロゴが横っ腹にドーン!とあって感動したことも思い出す(ちなみに1990年はスパイス以外にTeam Daveyの962Cもマルカツ・スポンサード)。バブルが弾ける直前のル・マンには、武富士やらFrom Aやら賃貸住宅ニュースやらとジャパンマネーが多く流れ込んでいたけれど、純粋なクルマ屋さんがル・マンを走るマシン(とチーム)にスポンサードしていた事実にはやはりロマンを感じる。実際、アートスポーツもいたけれどあちらはもっと大きな資本下にあったクルマ屋さんだから、やっぱりマルカツの存在をル・マンで改めて見ると、何か心にグッと響くものがある。
ちなみにエスカン(S&Company)の大阪・守口の拠点は元はと言えばマルカツのファクトリーだった場所。時代は変わりあの破天荒な世界観を今もそのまま貫くことは何かと許されないことだらけだけれど、高校生だったボクが『デイトナ』の広告を通して衝撃を受けたあの“ぶっ飛んだクルマのオモチャ箱感”は、今のエスカンにも少なからず受け継がれているはずだと願いたい。
堅苦しいことは一切抜きにしてとことん素直に、何より熱く、真剣にクルマで遊ぶ。
そんな“マルカツ魂”を、エスカンはこの先も受け継いでいくのである。鹿田パイセン、クルマ屋としてのさらなる“ぶっ飛び”に、期待してまっせ。